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トピックスとりねつの出来事

2024/2/10 社内講演会

とりねつは年に一度は「社内講演会」と題して、熱処理とは懸け離れた知識を身に付ける目的で、ものづくりとは異なる講師を招いてお話を伺う日を設けています。
本日はとっとりコンベンションビューローの理事長石村隆男様をお招きして「思わずゲゲゲ!米子・境港でブラリズム」~地域の成り立ちを探る時空旅~」と題して“弓ヶ浜半島の歴史秘話”を講演していただきました。
タイトルからも分かるように石村様は、2022年8月にNHK「ブラタモリ」で放送された「境港・米子〜思わずゲゲゲ! “鳥取のしっぽ”は不思議だらけ!?〜」でタモリさんたちを案内された方で、撮影のエピソードも交えてその時のストーリーに基づいて話をしていただきました。

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ご講演のレジメより
前編
✓地域紹介 鳥取砂丘だけでなく、山陰には砂丘地が多い!?
✓米子と境港は日本最大の砂州・弓ヶ浜半島に。鳥取・島根県境地域(伯耆国・出雲国の国境)。
✓一昨年8月放送のブラタモリ(境港・米子~思わずゲゲゲ!“鳥取のしっぽは謎だらけ!?”)の謎に迫る。番組始まりはゲゲゲ。水木しげるロードの妖怪から。水木しげるさんの原点は境水道。断層!?

本編
✓まず確認。弓ヶ浜半島の成り立ち(内浜・中浜・外浜)と弓形の理由。砂と美保湾流と東・西の卓越風。
✓中世以前の弓ヶ浜半島の変化(島と砂嘴から砂州へ)。半島形成の砂を供給した日野川の流路変遷など。
✓江戸時代前半(米子城築城後)の弓ヶ浜半島の状況。(米川用水開削前の状況)
✓江戸中期(米子から境港まで半島を貫く米川用水の開削後)の弓ヶ浜半島の劇的変化。砂丘地が次々に開拓され、村々が連なるカタチで次々に形成される。淡水レンズで真水確保。米の生産に加え、砂丘地に適した綿栽培が盛んに。コットンラッシュ。(衣料革命ともいわれる綿栽培)同時期、日野川上流部で砂鉄を原料としたたたら製鉄が隆盛。アイアンラッシュ。結果、砂鉄採取後の排砂が外浜を広げる。※山を崩して採れる砂鉄は約1%。99%の土砂は川に流す。
✓江戸中期以降、境港の交易港(北前船寄港地)としての発展が、境港・米子地域の発展も牽引することに。(たたらによる鉄・弓ヶ浜の綿の移出、北海道(松前)からニシン肥料の移入→弓ヶ浜半島が綿の大産地化)
✓境港が交易港になったのは境水道の存在。港の形成には上流にあたる斐伊川(島根県)の流路変化が深く関与。
✓斐伊川東流(江戸初期、大社湾から流路をかえ宍道湖へ)。幾度もの大洪水で宍道湖が溢れ、中海が溢れる。→境水道が洪水の度に浚渫(底の砂が大量の水で流され)され自然に整備される。※斐伊川が流路を変えたのはたたら排砂で川床高くなったため。その後、流路を人工的に変え斐川平野拡げる。江戸後半~明治中頃の境港は岸壁整備で大型の北前船が100隻以上横付け可能に。日本有数の交易港になる。
✓明治35年、山陰初の鉄道敷設。重要港湾の境港を起点に米子、御来屋をつなぐ。その後、山陰線延伸。同時期、たたらと綿栽培、さらに北前船の終焉で、地域の交易センターの役割が鉄道の結節点・米子へ。
✓鉄道敷設が米子のまちを大きく変える。街周辺部の大規模な区画整理や皆生温泉の一大温泉リゾート開発。
✓戦時が迫り弓浜半島に国(軍部)が目を向ける、皆生温泉に傷病兵の療養所設置。姫路陸軍病院分院も。同時期、陸軍と海軍の二つの空港が弓ヶ浜半島に設置。戦争末期には軍医養成のために米子医専設置。
✓戦後復興。境港の港湾(漁港、交易港)としての重要性が増し、新産業都市として外港や工業団地も整備。
✓山陰のゲートウェイ(鉄道、道路、空路、海路の結節点)として、米子・境港は圏域の中心都市として発展。
✓古より営まれた“たたら”と副産物の砂に導かれて、現在の米子・境港が形成された!?
 地域の成立ちを探る時空を超えた旅 ~時間軸を持つことで知識や経験が再組織化されていく~

エピローグ
たたら製鉄が当地域の地形の形成のみならず、地域経済・地域文化(人々の営み)の淵源のひとつ。日野川・斐伊川に囲まれた中海・宍道湖圏域はまさに「たたら経済圏」であり、「たたら文化圏」。米子と境港、そして周辺地域はそんな時代の文脈の中で、まちが形成されてきた。


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とりねつがある夜見町を含む弓ヶ浜半島は、私たちの生業である鉄に関わる「たたら」操業に伴う大量の砂により、日本最大の砂州になったことや江戸時代から明治以降の近代史を興味深く教わることができました。
石村様には講演後も沢山の質問を受けて頂き、大変有意義な時間となりました。弓ヶ浜半島は“鳥取のしっぽ”から今年の干支“とっとリュウ県”の角となって舞い上がる年になることと、石村様の今後のご活躍をとりねつ職員一同でお祈りいたします。